半鐘山を守る闘い

2008年4月23日 半鐘山現地調査

2008年04月23日

 勝利的和解にもとづく公園緑地部分を残したまま、一部造成の工事進捗を山に入って行うため、業者立会いの下、和解協定どおり工事が施工されているか、地元のみなさんらと現地調査に入りました。
 あの緑の山がここまで伐採されると、本当に忸怩たる思いがしますが、もともと山をばっさりと削ってしまう計画が、住民の10年におよぶ闘いでここまでで踏みとどめた意義は大変大きいと思います。
 しかし、正直に言うと、現在の山の姿は、本当に悔しい限りです。まだ解決まで時間がかかります。住民的な監視をしていきたいと思います。

    ↑新入路から山を見る                  ↑山上から天神さん側を見る 

    ↑山上から大文字方面を見る             ↑白川側グリーンベルト

2006年12月26日 歴史的「勝利」和解の日

2006年12月26日

半鐘山の緑を守る闘いも8年9ヶ月。そして、12月26日に、京都地方裁判所において、山の形を残し、周辺を緑地公園として京都市に無償譲渡すること、宅地面積は大幅に縮小することなどを盛り込んだ「勝利」和解が合意されました。
 言葉では簡単に言い表すことができないほど、感激した。最終意見陳述には、40人を超える地元住民が参加し、マスコミも多数。京都市も業者も出席のもと、尾西共同代表が陳述。闘いを振り返りながら、京都市の対応を批判。陳述の最後に「自分の一生をかけて、山を守っていきたい」と結ばれた。涙があふれました。
裁判長から、京都市長の代理人弁護士に、「何かありますか」と促され、代理人の弁護士は「和解の成立により裁判が取り下げとなった。京都市長の代理人として、終了したことは、原告、関係者、会社など、ご尽力いただいたことに敬意を表します」と一言。最後まで、ここまで長引いた京都市の責任に対する謝罪の言葉は一言もなかった。
 これを受け、裁判長から「損害賠償も含めて、合意されたことは、長い間にわたる、住民の熱い、真摯な努力の賜物です。半鐘山が自然や景観を守る象徴として今後も保全されるよう希望します。」と述べられた時は、住民から長年にわたる闘いの意味をかみしめる、深い安堵の声が漏れた。
 その後、弁護士会館で開かれた記者会見には、テレビや新聞記者が多数おしよせ、私も一言求められたので「長年の住民の山の緑を守るという無償の闘いによってこそ、こういった結果となった。その一員にいられたことが幸せです。しかし、ここまで長引かざるをえなかったのは、京都市も京都府も、緑を守る住民の願いに対し、積極的な役割を果たしてこなかったことは明らか。しかも、住民に謝罪の一言もなかったことは批判されるべき。ただ、今回京都市において景観にかかわる条例が検討されていることが示され、これをもって、事実上謝罪したとみなし、まさにわれわれの運動が行政を遅きに失したとはいえ、また不十分とはいえ、景観行政に変化を起こしたことは、運動の賜物だと思う。関係されたみなさんに、心から敬意を表します。ありがとうございました。ただ、工事など、これからが大変。協定が履行されるよう監視を強めたい」と述べました。
夕方のニュースにも、夕刊や翌朝の朝刊にも報道されました。
 翌日、半鐘山の前にみんなで集まり、「これからが本番!」と気勢を上げました。そのこともまた新聞で報道されました。
 これからも、住民の運動と半鐘山の姿を追ってご紹介します。

 ↑写真は記者会見で僕が発言しているところ       ↑半鐘山の前で勝利報告

2006年8月6日 半鐘山を守る運動の報告と懇談のつどい

2006年08月06日

半鐘山を守る運動もおおきな節目を迎えている。それは裁判所から和解の勧告が出され、業者と京都市と地元住民による調整がこの間、繰り返しおこなわれているからです。
 こうした状況を報告するとともに、今後の半鐘山をどう守っていくのかについては、地元のみなさんの意見にもとづいたものでなければらなないため、この間の経過の報告と、今後について意見を交換する「報告と懇談のつどい」を開催させていただいた。加藤市議も参加。
 地元の方40人が参加され、岡村代表による経過、弁護団による裁判の状況、国土研による技術的な問題など報告し、意見を交換した。引越しをされて今は神戸にお住まいの方もわざわざ見えて「私の故郷だから、緑を守ってほしい」と述べられたのが印象的でした。「景観保全のために壁の扱いをどうするのか」「工事が始まったらどう対応するのか」などの意見や提案も出され、今後の調整がいよいよ大切であることが浮き彫りとなりました。
 最後に尾西代表からまとめのあいさつが述べられ、終了後、弁護団と代表ら、そして僕と「小ごくろうさん会」をコーヒーで行い、今後について相談しました。

2006年5月23日 「みなまた京都賞」受賞

2006年05月23日

「みなまた京都賞」は、水俣病京都訴訟の和解が成立したのを期に、その和解金の一部を基金に積み立て、毎年、環境やまちづくりなどに貢献された団体や個人に送られるもので、平成10年から毎年挙行され、今年で9回目になる、たいへん権威ある賞です。

 今年は、水俣病事件が発生してちょうど50年目の節目の年です。和解金の一部を「今後の各方面の活動がさらに発展するように」との願いを込めたこのような栄誉ある賞を、いただけたことは大変光栄です。その重みをひしひしと感じます。
 受賞理由は「2001年5月以来、京都市民がこよなく愛する東山の麓、慈照寺銀閣に隣接する半鐘山に乱開発の計画が起きるや、地元の市民が中心となり会を作り、裁判のみならず市民運動などによって、緑の保全のため地道な活動を続け、世界遺産に登録されている京都の社寺の面的保全に多大の貢献をなしている」ことでした。

 半鐘山を守る活動もすでに9年目となり、僕も議員になる前からみなさんと取り組んでいます。今回の受賞は、まさに地域のみなさんと、立場を超えた「緑の里山を守れ」「世界遺産銀閣寺のバッファゾーンを守れ」との共通した思いによる、粘り強い取り組みのたまものだと思います。また、法整備が不十分な中にあって、さらに京都府や京都市の不誠実な対応の中、岡村・尾西両代表のイニシアチブと人徳と、弁護団、専門家、そして多くのみなさんのご支援あってこそだと思います。
 今回、「半鐘山と北白川を守る会」のほか、個人で「上妻四郎」先生が受賞されました。
 先生は、1969年以降、水俣病の潜在患者の発掘に努力され、なかでも(熊本)県民会議医師団を組織して、多くの良心的なお医者様と共に、患者の立場に立った医療を提供し続け、今日なお、多くの被害者が救済されていない水俣病被害の救済に努力されてこられたことが受賞の理由であるとのことでした。

授賞式には、木田安子さん、岡村千江子さん、光永敦彦の3名が出席し、弁護団は、飯田先生、玉村先生が同席していただきました。会場にはマスコミも大勢きていてビックリ。

解決まで後一歩のところに来ています。みなさま、どうかいっそうのご支援をお願いします。

翌日、各紙に大きく報道されてまたまたビックリしました。
その記事をみた我が子あいが、翌朝の学校朝礼でそのことをまとめて発表したそうです。そのことを鼻の穴を大きくして家で報告していました。先生にであうと「そんな活動もされていたんですねえ」と感心されてましたが、この活動は議員になる前からのもので、絶対勝利するまで頑張ろうと取り組んでいるものなのです。

   ↑表彰状を受け取る                  ↑選考委員の甲斐先生らと懇談 

2005年11月15日 三者協議

2005年11月15日

京都市役所で半鐘山と北白川を守る会のメンバー、開発事業者および京都市との協議の一歩として、半鐘山保全のための方策を検討する会議が行われました。これは、裁判は続いている一方、裁判所から和解の方策について検討するよう話があったため、半鐘山保全をするためには、どういった方法が検討できるかを、現行法令や条例、規則などから検討を開始するための会議です。京都市から、「地区計画」の考え方等について説明があったあと、質疑。今後もこういった協議が続く予定。今日の内容は、また現地の会議で住民で論議がされる予定です。
僕の感想は、やはり京都市が都市公園として半鐘山を管理するのが一番の解決の近道との思いがいっそう強くなる説明でした。

←協議の様子

2005年5月18日 京都市申し入れ 裁判最終承認尋問

2005年05月18日

仮処分の決定が確定したもとで、梅雨を前に、木が切られた半鐘山の雨水が住宅地に流れ込むことを防ぐために、住民で相談し、対策を京都市に求めるために市役所を訪れました。
 山の表面を覆っているビニールシートは、一部破損したり、伐採した木が腐食し危険なこと、さらには雨水対策が不十分なことから、抜本的な対応を求めました。
市役所では開発指導課が応対。住民12人と加藤市議、そして僕が出席。
 京都市は「業者に伝える」とのお役所的対応でしたが、受け取った限りは住民の安全を守るために対応させるよう、今後も働きかけたい。
また、午後からは半鐘山裁判の開発業者に対する証人尋問が行われ、傍聴しました。
業者の証言・反論は、本人の専門的知見ではないことは明白で、いかに反論の根拠が薄いかが浮き彫りになりました。しかも、住民代理による質問で「開発審査会の付言で、今後は住民説明を十分行うこととあるが、仮処分決定がでる直前の平成15年12月に急遽工事を再開したとき、住民説明をしたのか」との問いに、「記憶にない」と肝心なことは忘れたと述べたとおり誠実さを欠いたものでした。一方、「現計画どうりに開発計画を行う意思はない」と述べるなど、追い詰められている様子が伺えました。
いよいよ裁判も大詰めです。

←写真は京都市に共同代表が書面で申し入れる様子

2005年4月6日 半鐘山工事差し止め仮処分の保全異議が却下!

2005年04月06日

本日、行政訴訟の証人尋問が開かれた。その直後、一昨年に工事差し止めの仮処分決定が出されたことに対する業者からの異議申し立てが出されていたものが、却下される裁定が下された。画期的なことで、裁判の結果がでるまで、工事は差し止められることが確定した。同時に、却下の理由に、われわれが主張してきた工事に伴う、山の動きによって家屋などに重大な被害が出ていることが認められたため、行政訴訟、損害賠償訴訟にとっても大きな意味をもつ。4月27日は半鐘山と北白川を守る会共同代表による証人尋問が行われる。いよいよ半鐘山をまもる闘いも正念場にきている。署名にも取り組んでいます。ご協力をお願いします。

←写真は半鐘山の様子

2003年12月19日 勝利報告集会

2003年12月19日

緊急に勝利報告集会を開催。広原もりあきさんが駆けつけてくださった。
みなさんと握手。ご近所の方々50人が緊急にもかかわらず集合。「木は切られたが、木はまた育つ。これからは山を育てる活動をして欲しい。それを応援できる市政をつくります」と広原さんの言葉にみんなおおいにうなずいた。そして一人ひとり握手。感動の一瞬一瞬だ。
その後京都市への申し入れと公開質問状の提出。工事再開の届出を受けて、住民に連絡したのかについて僕がつめた質問をしたが、京都市は「これまでから指導してきた」というので、僕が「そんな一般的なことは言っていない。工事の許可をしておきながら、これだけ問題がある場所について、住民に伝えようとしていないのではないか。住民に許可を下ろしたあと、伝えたか」というと「伝えていない」と認めた。また、「開発許可を下ろした条件に業者の信用なども含まれているが、今回、説明なしに工事を行ったことで、許可条件がなくなった。許可の取り消しを求める」と厳しく指摘しておいた。
京都地裁の仮処分決定については、「仮処分は住民と業者の係争のこと。また市はこの問題で、住民を原告とした行政訴訟の被告であり、コメントは差し控えたい」と述べた。
12月25日までの期限で公開質問状。どんな返事が返ってくるか。楽しみだ。
前日の夜は、以前から予定していた半鐘山と北白川を守る会の忘年会。祝勝会となって多いに喜びを分かち合った。

 ↑早朝から住民報告集会の様子                    ↑ 祝勝会の様子

2003年12月18日 京都地裁で工事の中止を求める命令が下る

2003年12月18日

この日の朝、木の伐採も含めた工事の中止を求める命令が下りた。本当に画期的な内容。僕たちは半鐘山の前にあつまった。決定文書を地裁にとりにいった住民の方がタクシーで半鐘山の現場に駆けつけた。
そして、その場で業者を呼び出し、決定を読み上げ、工事の即時中止を求めた。
業者もさすがに命令には背けず、工事を中止せざるをえなかった。
マスコミも殺到。住民は大喜びで、弁護士会館での記者会見に向かった。
記者会見で、尾西共同代表は「半鐘山を守ることは京都の緑と町を守ることにつながる。とりでとしての闘い。勝利の意味は大きい。光がさしこんできた」と感慨深く語られた。僕は心から感動した。僕もテレビに向かって「許可を下ろした京都市の責任は重大」と告発した。
夕方のテレビのニュースに流れたようだ。

↑業者に工事の即時中止を求めて申し入れの様子   後ろの山の木が切られていることがわかる↑

2003年12月12日 業者との話し合い

2003年12月12日

夜、緊急に業者との話し合いをもった。そのときには来週中に仮処分の決定が出されることが明らかであったため、「せめて仮処分決定が出されるまで、木を切るな」と住民のみなさんがこもごも訴え。中には「子どもが『なんで木を切っているの!』『かってに木を切っていいの!』『鳥が来なくなる』などと言っている。会社の倫理の問題だ」と切々と訴えるお母さんも。
それでも業者は「私たちの訴えが正しい。仮処分の決定をまつまでもない。工事は続ける」と話を聞こうとしない。最後は業者が「今日はこれで終わり」と席を立つ始末。許しがたい。

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