ほのぼの

2012年12月16日 総選挙投票日の新聞赤旗日刊紙への妻の投書

2013年01月19日

本年も家族一同よろしくお願いいたします。

2013年01月01日

僕はまたしても、紅白歌合戦の途中で爆睡。元旦になって30分くらいたって、目が覚める。コタツの上には、三人が食べた年越しカップ麺のソバの残骸。

そして、朝早くに起きて吉田神社に。おみくじを引き、木に結わえる。みんな小吉と末吉ばかりでしたが「努力すれば報われる」との言葉に、「頑張ろう」と。

ご近所さんに家族であいさつまわりをしてから、田舎に。僕の実家には兄も帰っていて、みんなで昼ごはん。そして、妻の実家に。今年は、年末いろんなことがあり、バタバタすごしましたが、元旦にはなんとかみんな集まることができました。

夜、僕はまたしてもその場で寝てしまい、眼が覚めると、まだ妻たちはお酒でワイワイ。僕は部屋に寝に行きました。

翌朝は早く起きて、受験を控える子どもと僕が、甥とともに帰京。その車でも僕は爆睡。

そして、わが子は勉強にとりかかり、僕は平安神宮宣伝に。

本年もよろしくお願いいたします。

区民運動会&吉田神社子どもみこし

2012年10月14日

吉田区民運動会の日は、各地で運動会が開かれましたが、僕は体振顧問でもあるし地元運動会に一日参加させていただきました。町内の方から「他の議員はみんなあちこち回ってるのにいいの?」と心配の声を寄せていただきましたが、毎年、吉田区民運動会には一日いるのです。
 今年も超別対抗の障害物や玉入れ、グランドゴルフなどに出ましたが、なんと玉入れで一位となり優勝。41個も入りびっくり。閉会式で、僕らは町内の旗を高く掲げながら本部前に向かい、表彰状を僕が受け取りました。それをかかげながら上大路町の場所にもどると、拍手喝采。その後、みんなでパチリ。さっそくどこに表彰状をはるか、トロフィーは目立つようにどこの家がいいか、などなどわいわい盛り上がりました。途中、妻が前日に職場の保育園運動会でクタクタで倒れたので、あいがやってきて、町内の皆さんに「お母さんがしんどいのでこれません」と言いに来てくれた。それをみんな聞いて、「大丈夫~?」「よくわざわざ伝えに来てくれてありがとう」と声があがる。なんともいい感じの運動会なのです。夜はもちろん祝勝会。三次会まであったようです。さすが僕は一次会だけで失礼しましたが。
 翌週は吉田神社の祭り。我が上大路町は子ども神輿で二日間練り歩くのです。町内総出で、おでん、おにぎり、みたらし、綿菓子、ポップコーンなど準備して、神輿も男で組み立てる。参加したくてウズウズしていたあいが、ちょっとだけ顔を出す。僕はあいと仲がいいという話をしていたら、ご近所さんがあいを見つけて「お父さんと仲いいの?」と冷やかし半分に質問。あいは「何言うてんの?」「家では存在感ないし」と一蹴。僕は撃沈。みんなは「やっぱり~」「男は悲しいね~」「僕のほうがまだまし」など悲喜こもごもの反応。参りました。
 本神輿を出迎えた後、それについて子どもたちと大人が町内を練り歩く。夜はまた大宴会。演説会があったので遅れて参加したら「遅い~」とブーイング。いつもお世話になっている方の庭で延々と宴会。我が家で僕は、どれほど尊敬されているか、と説明しても誰も信じず、妻からは嘲笑。
忙しくも楽しい秋がすぎていきます。

鹿島西町第一応急仮設住宅へ

2012年08月31日

お米を持って訪問したのは、鹿島西町第一応急仮設住宅。
ここは比較的、街中にあるため、「高台の仮設にいけば、生活がたいへんなので、狭いけどこっちにした」という声が聴かれるように、高齢者が多い仮設でした。初期に立った仮設のため、壁が薄く部屋は狭くて、夏暑く冬寒いものです。いったん、新潟や福島の内陸部に避難していた方も、雪の多さなどから、故郷の海が近く気候が比較的温暖な南相馬に戻ってこられた方が多いと聞きました。
 訪問すると「よく来てくれた。ま、入ってくれ」と言われ、八十歳代のご夫婦のお宅にお邪魔しました。「震災後、八回点々としてようやく自宅ちかくのこの仮設に入れた。津波は来なかったけれど、警戒区域のため帰れない。もう歳なので、生きているうちに、家に帰れるか・・・」と一時間ばかりお話を伺いました。この方の娘さんは小高商店街で歯科医をされていましたが、今は入れないため、福島市内に。お孫さん二人も歯科大学生。「孫が帰ってきてまた小高で開業してくれたら、これほど幸せなことはないな。でも、いつ帰れるか」とつらそうう。そして「ひ孫が生まれてうれしい。でもここには放射能があるから呼べないけど」と写真を見せてくださいました。ジュースやアイスクリームまで出してくださいました。
 また、原発下請けでクビになった方は、仕事がなくて除染作業も安いし正職員でないし、放射能にかかわるのもいや、年老いた母も一緒に暮らしているから遠くに働きにでるわけもいかない。本当にしんどい」と。
 六〇歳代の女性からは我が子を見て「中学三年生?偉いなあ。原発のない世の中になるため、若い人に頑張ってほしい。頼むで!!」と叱咤激励されました。友も背筋を伸ばしてお話を聞いてました。

↑鹿島西町第一は大規模仮設でした         ↑訪問したお宅の方と一緒に
                                 写真をとらせていただきました

原発事故さえなかったら、もっと命が救えた

2012年08月31日

あと一週間後に住む予定となっていた新築の家が、津波で浮いて、家の向きがかわってしまったり、海岸沿いから家が流されてきて、一階がなくなり二階部分のみ、まるでこれまでからあった平屋のように道沿いに残っていたり・・・と生々しい話をたくさんお聞きしました。
「津波の後、まだ生存している人もいた。助けに来るから頑張れって言ってたら、原発事故で避難指示がでてしまった。原発事故さえなかったら、助けられた命がもっとあったのに」―胸につきささりました。
 その日の感想がボランティアセンター発行ニュースに掲載されました。
【この日の最年少は、お父さんといっしょに参加した京都の中学3年生です。「少し涙が出るくらい震災当時の大変だったことを聞きました。『話すだけでうれしい』と言われ、ボランティアしてよかったと思いました」と感想をのべています。】

                                                                                                                                                                                                                                                                                                    ↑原発事故がなければ、本当に美しい小高区          ↑フィールドワークの感想を書く友

浪江・小高原子力発電所

2012年08月31日


        ↑ここから浪江町                    ↑原発建設計画地
 今も警戒区域で立ち入り禁止となっている浪江町のところまで行きました。すぐ横に立っている家の屋根には、東京電力が敷いたブルーシートがはってある。「家の被害(損害賠償)を減らすために勝手に貼っていった」という話も紹介されました。
 この地域には、なんと東北電力の「浪江・小高原発」の建設計画があり、いまだ計画は残ったままのようで、そこには調査のための高い鉄塔がたっていました。
浪江町に近づくと測定器が0.54マイクロシーベルトに跳ね上がりました。草むら近くは高く、風がふくたびに数値があがります。

        ↑放射能を測定                     ↑0・54マイクロシーベルトに

善明ポンプも破壊

2012年08月31日

海沿いに移動すると、200ヘクタールもの広大な干拓地。かつては集落と田んぼがあり、水を調節するために水門があります。共産党衆議院議員(当時)の松本善明さんが、「少しの雨で水がついて、ダメになっていいのか」と現地調査して、国会でとりあげ水量調節するためのポンプ、地元では「善明ポンプ」も壊滅。海からの水が流れ込んで、川の水も流れてきて、あたりは湖状態になっていたため、「早く水を流さなければ」と、震災直後に自衛隊を引き連れて共産党渡辺市議が水門までいき、何度も挑戦してようやく人力で解放したというお話も聞きました。周囲の集落はすべて流され、出産里帰りで帰ってきていたお母さんと五か月の赤ちゃんも亡くなり、発見当時の生々しい様子もうかがいました。ちょっと文章には書けません。
 海岸のすぐ近くに、あの水谷建設が土砂で儲けて盛土した上に建てた工場に避難した方は、なんとか生き延びられたという話もありました。

  ↑津波がおしよせた水門              ↑干拓地側から海岸方面を見ると、
                                  広大な土地であることがわかる―
                                  この六月くらいまで、水浸しでした

避難指示解除準備区域・小高区に

2012年08月31日

小高区は、今年四月まで「警戒区域」であったため、原発事故を受けて、着の身着のまま地域を出て、帰れないままの地域で、この四月からようやく昼間の時間だけ入れるようになった区域です。

足を踏み入れたとたん、まったく手がついていない様子が目の前に広がりました。


↑20キロ圏の表示                    ↑津波の被害をうけたそのままの家

寺内第二応急仮設住宅に訪問

2012年08月31日


最初に向かった寺内第二応急仮設住宅は、当初大手の会社が建てた仮設に比べ比較的建物がしっかりしていました。
各世帯に訪問し、山形のお米や徳島のすだち、千葉の梨を届けて、お話を聞きました。お米は本当に喜ばれて、中でも関西より西の地域のお米が喜ばれました。やはり、放射能の影響を心配されてのことだと思います。
「家は全部流されて、ご近所さんも、ほとんど亡くなった。」「家をなくした上に、昨年末に、仮設で夫が病気で亡くなって、さびしい」「原発事故がなかったら、家にもどって後片づけでもするけれど、いつもどれるか、わからんから。」などなど、生々しいお話をたくさん伺いました。でも、「若いのに、エライね」「仮設ではあんまり知り合いがいないから、こうして聞いてくれるだけでも、話せるだけでも、本当にうれしいよ」とおっしゃっていただき、わが子もホッとした様子でした。
それぞれ、じっくりお話をしていただいたので、実際僕たちのグループが回れたのは、半日で5軒。訪問後、団地集会所をお借りして、それぞれグループの報告、課題の整理をした上で、京都からこの一年間、ボランティアセンターに常駐されている宮前さんからお話を聞きました。

福島県南相馬市 民青同盟・青年ボランティアに

2012年08月31日

南相馬市は、福島第一原発から20キロ圏の小高区(避難指示解除準備区域)を含む地域です。日本共産党ボランティアセンターが最前線で原発ゼロを目指しつつ、被災地を支援する活動に全力をあげています。

 そのセンターで第5次の青年ボランティアが実施されたため、友(中3)と二人で参加してきました。

 *友自身も不安で、心配もあったので、現地とよく相談して、二日間のみのボランティアでした

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